私の時代が来るまで:前編
私には三重の意味で故郷がない。オーストリアではボヘミア人として、ドイツではオーストリア人として、この世ではユダヤ人として。
生前のマーラーはヨーロッパ楽壇から迫害されているような印象を受けた。と、親友のブルーノ・ワルターは回想している。
やはりそれは自らの出自がユダヤ人という、当時のヨーロッパで忌み嫌われるものだからとマーラーも認めていたのだろう。
だからこそマーラーは、生き延びるためにユダヤ教からローマ・カトリックへと改宗した。イエス・キリストを救世主と認めないユダヤ教から、キリスト教へと鞍替えする複雑さ・つらさ。
この感覚はたとえば今の私たち日本人にはわかりにくいかもしれない。憲法の名の下、仮初めにも基本的人権を尊重されている私たちには。
ただ歴史を深く学ぶことで、皮膚感覚とまではいかなくても当時の先人たちの苦悩や奮闘を想像することはできる。
職業指揮者としてデビューをしたマーラーは、夏休みなど長期休暇を取った際には作曲に勤しむのが日課だった。
主に交響曲や歌曲の制作に心血を注いだ彼は、完成させた作品を自分が率いるオーケストラに初演させるのを楽しみにしていた。
だがマーラーの悲劇は、発表した交響曲のことごとくが冷笑をもって迎えられたことだ。
ウィーンの楽壇ではあの辛辣屋のハンスリックを始め、作曲家としてはマーラーを決して評価しなかった。
それどころか指揮者としての資質さえも疑われ、とある大衆紙では彼の指揮ぶりの珍妙さをからかうポンチ絵さえ掲載されたくらいだ。
なにもかも、自分がユダヤ人という出自ゆえに不当に差別されている。マーラーがそう思い込みたくなるのもわからないでもない。
しかしむしろ問題は、彼の交響曲が19世紀末のヨーロッパにおいては理解され難かったということではなかったか。
ウィーン大学で師事していたアントン・ブルックナーを見るがいい。聖なる野人と称されたこの作曲家も、ワグネリアンという理由でハンスリックに散々痛めつけられた。
それでもめげずに交響曲を作曲し続け、晩年に至ってようやく評価された。たとえ全面的なものではなかったにしろ。
マーラー自身も自負はあった。いつか私の時代が来る。同僚のリヒャルト・シュトラウスに書簡で書いたこともあった。
だが、自らの時代を迎えるには彼はあまりに繊細で短命だった。
1911年、敗血症が彼の命を奪った。50歳。16歳年下の親友ワルターがその衣鉢を継いだ。
ワルターはマーラーに心酔していた。マーラーの身振り手振りを、歩き方から咳払いまで真似した。
彼が指揮するマーラーの交響曲は、しばしば好評をもって迎えられた。しかし人々は、マーラーに感動したのではなくワルターの指揮が見事だからだと考えていた。
ワルターの奮闘は更に続く。彼は同時にモーツァルトの交響曲でも名演を遺した。
同時代を生きたフルトヴェングラーがベートーヴェンとブラームスを得意にしていたのに対し、モーツァルトとマーラーは彼に任せておけばよいといつしか定番となっていった。
次回に続く。
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