クラシック音楽あれこれ

クラシック音楽のことをメインに語ります。

恋の歌歌うベートーヴェン:前編

ベートーヴェンというと、彼の交響曲群特に奇数番号のそれに見られるように、雄大で男性的最終的には人類愛を説くなどスケールのでかさが際立つ。

十代の頃、ユゴーの『レ=ミゼラブル』や吉川英治の『宮本武蔵』を貪るように読んでいたせいもあろうか。


人生いかに生きるべきかという大テーマを追求していたので、ベートーヴェン交響曲は私には頃合い良く馴染んだ。


特に第三番「英雄」には痺れまくった。寝ても覚めても、ナポレオンを意識したと思われる第一楽章を口ずさんでいた。


かぶれたついでに読んだのが、この「英雄」をテーマにしたアントニィ・バージェスの『ナポレオン交響楽』。いかにベートーヴェンから発する英雄的精神に感化されたかがわかる。


このような有り様だから、「英雄」の演奏やレコード、CD一つ取ってもいかに勇壮なものか否かに視点が向けられがちだった。


フルトヴェングラーウィーン・フィルで振った、いわゆるウラニア版を最上のものと位置づけ、下手な指揮者が振っているのを聴くと、


「こんなのは、ベートーヴェンじゃないっ!」


と拒絶するほどだったから、当時のイカれようがわかろうというものだ。


あの頃の私は、ベートーヴェンの男らしさばかりにのめり込み、その内面にまで踏み込むことをしていなかった。なんと迷惑な聴き手か!


ベートーヴェン繋がりでフルトヴェングラー贔屓となり、彼の遺したベートーヴェンブラームスでなければ受け付けなかった時期が続いていた。


それどころか、チャイコフスキーですらフルトヴェングラー推しで三度続けて失恋した時は、彼の指揮による「悲愴」を聴いて涙を振り絞ったものだ。


もはや重症、としか言いようがない。話が脱線した。


フルベンもそのような一方的な聴き方をされては迷惑だろうが、男性的という自分の中にないものをあの頃は追い求めてばかりいた。


だから「英雄」に代表されるように、ベートーヴェンは雄々しく弱音を吐かないという勝手なイメージが自分の内面で形作られていた。


故にこそ、フルベンことフルトヴェングラーをその代弁者として仰ぎ見ていた。故人だからいいものの、生身の人間なら私の一方的なのめり込みに辟易しただろう。


情熱というのは方向性を間違えると、己自身も火傷させかねないという一つの例だ。


そんな私だったからこそ、恋するベートーヴェンというのはイメージに合わなかった。


手塚治虫の絶筆の一つ、『ルードウィヒ.B』において主人公ベートーヴェンが、恋した令嬢に聴こえるようにと忍び込んだ屋敷でピアノを弾くシーンがある。


そのさまをベートーヴェンを一方的に敵視する青年貴族に見咎められ、絶体絶命というところで話は未完となっている。


これを読んだ当時、私は恋で破滅しかねないベートーヴェン像にヤキモキした。お前、何やっとんねん、と。私にとって、そんな軟弱なベートーヴェンは嫌だった。


続く

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私の時代が来るまで:後編

1939年9月1日、第二次世界大戦勃発。ブルーノ・ワルターは命からがらヨーロッパを脱出した。亡命先はアメリカだった。

戦火を逃れるためでもある。それ以上にヒトラー率いるナチス・ドイツが欧州全体を席巻しかねない勢いだったからだ。

ナチスユダヤ人迫害を国是としていた。何よりワルター自身、ゲッペルス宣伝相にドイツに留まっていたら命の保証はないと脅されていた。

ウィーンに逃れたが1938年にオーストリアがドイツに併合されると、再び路頭に迷った。

イタリアからアメリカに拠点を移していたトスカニーニに誘われるように、海を渡り異国の地に居を定めた。

なんという皮肉だろう!マーラーも晩年の数年間は、ヨーロッパ楽壇から追い出されるようにしてアメリカへ渡った。まさか同じようにユダヤ人という理由だけで。

この時の心労がよほど腹に据えかねたのだろう。戦後ワルターは、フルトヴェングラーが演奏旅行のため渡米すると聞いた際、強硬に反対した一人となった。

彼にとっていかなる理由があるにせよ、かつての同僚がドイツを離れずナチスの広告塔のように働いたことは断じて我慢できなかったのだろう。

アメリカに居を定めたワルターは、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(後のニューヨーク・フィルハーモニック)で指揮を取った。

1943年11月というからまだ戦時中である。彼は急病で指揮台に立てなくなってしまった。

この時まだ弱冠25歳の副指揮者が代役を務め、見事に大成功を収めた。

若者の名前はレナード・バーンスタインといった。戦後ヘルベルト・フォン・カラヤンと人気を二分した名指揮者である。

バーンスタインユダヤアメリカ人だった。長年の因習でユダヤ人が虐げられていたヨーロッパに比べると、アメリカはユダヤ人にとって住みやすい土地柄といえた。

何よりアメリカの生え抜きの指揮者ということが、この若者を熱狂的にスターダムへと押し上げた。

ユダヤ人であるがゆえに、この世には自分の故郷はない。かつてマーラーは吐き捨てるように世をはかなんだ。

だが、マーラーがもう少し長生きしていたらアメリカは彼にとって、案外住みやすい場所になっていたかもしれない。

ある意味、弟子と言っていいワルターが亡命し、同じユダヤ系としてバトンタッチされた形のバーンスタインが、その後孫弟子のようにマーラーの普及に努めた。

ワルターは戦後、度々ウィーンへ舞い戻り得意とするモーツァルトマーラーを振った。特にマーラー交響曲大地の歌」は、彼の総決算というべき名盤を生み出した。

マーラー生誕100周年を迎えた2年後の1962年、ワルターは85年の波乱に満ちた生涯を終えた。

そしてこの60年代に彼らを追悼するかのように、バーンスタインマーラー交響曲全集を指揮し世界的なブームとなった。彼の、マーラーの時代がようやく来たのだ。

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私の時代が来るまで:前編

私には三重の意味で故郷がない。オーストリアではボヘミア人として、ドイツではオーストリア人として、この世ではユダヤ人として。

グスタフ・マーラー

生前のマーラーはヨーロッパ楽壇から迫害されているような印象を受けた。と、親友のブルーノ・ワルターは回想している。

やはりそれは自らの出自がユダヤ人という、当時のヨーロッパで忌み嫌われるものだからとマーラーも認めていたのだろう。

だからこそマーラーは、生き延びるためにユダヤ教からローマ・カトリックへと改宗した。イエス・キリストを救世主と認めないユダヤ教から、キリスト教へと鞍替えする複雑さ・つらさ。

この感覚はたとえば今の私たち日本人にはわかりにくいかもしれない。憲法の名の下、仮初めにも基本的人権を尊重されている私たちには。

ただ歴史を深く学ぶことで、皮膚感覚とまではいかなくても当時の先人たちの苦悩や奮闘を想像することはできる。

職業指揮者としてデビューをしたマーラーは、夏休みなど長期休暇を取った際には作曲に勤しむのが日課だった。

主に交響曲や歌曲の制作に心血を注いだ彼は、完成させた作品を自分が率いるオーケストラに初演させるのを楽しみにしていた。

だがマーラーの悲劇は、発表した交響曲のことごとくが冷笑をもって迎えられたことだ。

ウィーンの楽壇ではあの辛辣屋のハンスリックを始め、作曲家としてはマーラーを決して評価しなかった。

それどころか指揮者としての資質さえも疑われ、とある大衆紙では彼の指揮ぶりの珍妙さをからかうポンチ絵さえ掲載されたくらいだ。

なにもかも、自分がユダヤ人という出自ゆえに不当に差別されている。マーラーがそう思い込みたくなるのもわからないでもない。

しかしむしろ問題は、彼の交響曲が19世紀末のヨーロッパにおいては理解され難かったということではなかったか。

ウィーン大学で師事していたアントン・ブルックナーを見るがいい。聖なる野人と称されたこの作曲家も、ワグネリアンという理由でハンスリックに散々痛めつけられた。

それでもめげずに交響曲を作曲し続け、晩年に至ってようやく評価された。たとえ全面的なものではなかったにしろ。

マーラー自身も自負はあった。いつか私の時代が来る。同僚のリヒャルト・シュトラウスに書簡で書いたこともあった。

だが、自らの時代を迎えるには彼はあまりに繊細で短命だった。

1911年、敗血症が彼の命を奪った。50歳。16歳年下の親友ワルターがその衣鉢を継いだ。

ワルターマーラーに心酔していた。マーラーの身振り手振りを、歩き方から咳払いまで真似した。

彼が指揮するマーラー交響曲は、しばしば好評をもって迎えられた。しかし人々は、マーラーに感動したのではなくワルターの指揮が見事だからだと考えていた。

ワルターの奮闘は更に続く。彼は同時にモーツァルト交響曲でも名演を遺した。

同時代を生きたフルトヴェングラーベートーヴェンブラームスを得意にしていたのに対し、モーツァルトマーラーは彼に任せておけばよいといつしか定番となっていった。

次回に続く。

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「革命」は革命に非ず?:後編

体制派か反体制派か。ショスタコーヴィチ交響曲第五番について語る時、必ずどちらで見るかで評価が分かれる。

ショスタコ自身が、後年共産党員になったことを考えると、アンチにとっては体制迎合の作曲家として批判したいところだろう。

ましてやヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』が偽書であることが明らかになった現在においてや言わんや。

ところが、事実はまったく異なる様相を呈していたことがわかった。

1991年のソビエト連邦の崩壊は、それまで常識とされていたソ連の実情が明るみになった。

凶悪犯罪は、腐敗した資本主義社会にのみ発生するというソ連当局の主張も間違っていたことが実証された。

本編はクラシック音楽について語るブログなので、その件については詳細は省く。

ただ、ソ連崩壊に伴った情報公開(それ以前に、ゴルバチョフ書記長のグラスノチがあったが)によってショスタコ研究にも新しい光が当てられた。

エリアフ・インバル/東京都交響楽団によるCDの曲目解説によると、1980年半ばから現在(当時は2011年)における、第五番の主流解釈について長々と触れた後核心に入っている。

体制迎合でもなければ反体制にも非ず。ショスタコーヴィチの第五番は、政治的な意図で作曲されたものではないという主張だ。

むしろ極めてプライベートな曲であり、ショスタコーヴィチが作曲前に付き合っていた愛人への思慕から生まれたものだという。

詳しくは一柳冨美子(ひとつやなぎ・ふみこ)氏の解説を読んでいただきたいが、エレーナという女子大生への愛とその終焉を歌い上げたものだという。

特にエレーナと第五番の関連性を解読した、ロシアの研究家ベンディーツキイに至っては、

交響曲第五番(原文では、第5番)はラヴ・ソングだ」

と言い切っているらしい。これは正に、コペルニクス的転回と言えよう。

第五番を当時の独裁者スターリンに屈したものと批判するにしろ、実はそう見せかけて反抗への思いを込めたものと評価するにせよ、この新説の前では様相が変わってくるのだ。

いずれにせよ、ショスタコーヴィチも大胆にして緻密な作品を公の場で公開したことになる。

もしも愛人に宛てた曲だと知られたら、投獄どころではすまなかったのは間違いない。

自らの不倫のさまを歌い上げた曲を、いかにも社会主義リアリズムに則ったかのように見せかけたところに、彼の剛胆さを感じ取るのは私だけだろうか。

考えようによっては、こちらのほうが遥かに"革命的"であるようにさえ思える。

なんにしても、この新解釈を得ても第五番に対する感動が変わらなければ、真のショスタコ・マニアと言えよう。

背景や解釈がどうであれ、ショスタコーヴィチ交響曲第五番が真の名曲であること、それだけは覆しようのない事実だ。

天国のショスタコーヴィチに乾杯!

※このブログは、毎月第2、第4土曜日に配信予定です。

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「革命」は革命に非ず?:前編

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ交響曲第五番。我が国では「革命」の副題が(他は、中国・韓国)つけられている名曲である。

多少マニアックともいえるショスタコーヴィチという作曲家を語る上で、まず筆頭に挙げられるのがこの第五番だ。

ショスタコーヴィチを評価するにしろ、批判するにしろ、この曲をどう解釈するかで試金石とされてしまう気の毒な作品ともいえる。

当初は体制迎合の作品とみなされた。1938年ロシア革命成立20周年の年に初演された第五番は、ショスタコーヴィチの名誉回復も懸かっていた。

何故かというと、彼は自作のオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がプラウダ紙上で激しく批判されたのだ。

当時のソビエト連邦の国営新聞プラウダで批判されるということは、体制側に睨まれることを指す。

ちなみに当時のソ連の最高権力者は、ヒトラー毛沢東と共に20世紀三大独裁者の一人に挙げていい悪名高きスターリン

彼は自分の気に入らない人間は、誰彼構わず逮捕させ良くて強制収容所送り、運が悪ければ処刑場へ直行させてしまっていた。

そんな独裁者に睨まれたショスタコーヴィチは、心底震え上がっただろう。

事実彼の同僚、友人の中にもスターリンの機嫌を損ねて逮捕・処刑されていった者たちがいた。

西欧からは「モーツァルトの再来」とまで絶賛された彼だが、ソ連当局においては気に入らなければいつ屠られるかわからない哀れな子羊に過ぎなかった。

初演を取り止めた交響曲第四番をしまい込むと、早速筆に取りかかったのが第五番であった。

前衛的な第四番から、一転していわゆる社会主義リアリズムに忠実なという触れ込みで作曲された第五番。

初演はスタンディングオベーションとなるほどの大成功だった。当局も大満足で、彼は命拾いした。

反面、ソ連という当時唯一の社会主義国家を快く思わない西側諸国からは、彼は当局に魂を売ったと批判された。

それが覆されたのは、スターリンショスタコーヴィチも他界していた1980年にアメリカ経由で出版された『ショスタコーヴィチの証言』であった。

この中で、彼はソ連の体制を批判すると共に代表曲である第五番を、

「あの第四楽章は(当局に)、強制された歓喜に過ぎない」

とバッサリ斬り捨てている。一転して、ショスタコ(彼のファンは、愛着を込めてこう呼ぶらしい)は時代に翻弄された悲劇の作曲家として位置づけられた。

ところが話はここで綺麗に終わらない。後に未亡人が『〜証言』を名指しで批判。

インタビューしたとされる頃、ショスタコは病気療養中でそんなインタビュアーの存在など見たことも聞いたこともないと言い出したのである。

一転して偽書扱いされた『〜証言』だが、早とちりした専門家の中には(特に我が国において)やはり奴は体制と寝た作曲家と再批判した。忙しいことである。

※今回よりこのブログを、800文字前後から1200文字前後に増やしました。

※このブログは、毎月第2、第4土曜日に配信予定です。


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ブラームスその愛と死:後編

クララ・シューマンは夫との間に、八人(長男は早世)の子供をもうけていた。夫ロベルトが亡くなったからといって、彼女には悲嘆に暮れている暇はなかった。

ピアニストとしてピアノ教師として類い稀な才能を発揮していたクララは、自らの腕一本で子供たちを育てていくことを決めた。

ブラームスは変わらぬ親交を、クララたちと温めていった。

あまりにその親密ぶりから、クララとブラームスは男女の関係にあると再び覗き見趣味的な噂が飛び交った。

それどころか、末っ子のフェリックスがブラームスとの間にできた不倫の子とまことしやかに噂する者がいたくらいだった。

クララは逆風に堂々と立ち向かった。いずれブラームスと再婚するのではとまことしやかに言う者もいる中、かつての夫の弟子と節度を保った関係を続けた。

むしろ現在におけるまで、クララとブラームスの恋仲を証明するものは出ていない。

下衆の勘繰りをする輩は、夫ロベルトの晩年の手紙と共に証拠を焼却したと思うだろう。

しかし二人の恋仲を証明するものが存在しない時点で、むしろブラームスの片想いと考えるほうが妥当だ。

考えてもみるがいい。ブラームスがもしもクララと男女の関係にあって、あまつさえ子供すら生ませたのなら男としての
責任を取るはずだ。

実際のところ、彼にできたのは誹謗中傷に悩むクララに友人として寄り添うことだった。これこそがブラームスなりの愛情表現といえる。

人によっては、特にアンチにとってはそういうブラームスの煮え切らない態度が嫌だと言う。

しかし愛の形は人それぞれだ。黙っておれについてこいと、ワーグナーみたいに強引にモノにするだけが愛ではない。傍らから見守るのも立派な愛だ。

ブラームスがいかにクララを愛していたか。クララの死から一年足らずで、この世を去ったことでも明らかだ。

純愛であったといえる。

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ブラームスその愛と死:前編

ブラームスは苦労人である。家計の足しにと、少年時代から場末の酒場でピアノを弾いてお金を稼いでいた。

ある時、ピアノの大家であるフランツ・リストの個人レッスンを受ける幸運に恵まれた。もっとも両者にとっては、不幸な出会いに終わった。

リストが模範演奏をしている間、ブラームスは事もあろうに眠りこけてしまったのだ。よほど疲れていたのだろう。

いずれにしろ、このピアノの大家との縁はこれっきりとなってしまった。

しかし彼はついていた。他の大物との出会いが、この若者の運命を切り開いた。ロベルト・シューマンである。

ブラームスのピアノ演奏を聴いて、この若者が只者ではないと直感したシューマンは弟子として遇することにした。

彼が終生、シューマンを師匠として尊敬したのは言うまでもない。

シューマン一家との交流は、ブラームスの心に癒しを与えてくれた。特に14歳年上のシューマンの妻、クララには密かに憧れた。恋心といってもいい。

クララのほうも、夫の弟子がそのような想いを抱いていることに薄々気がつきつつも、年のだいぶ離れた弟のように接していた。

彼女は、妻として夫に寄り添いつつ、母としても子供たちを懸命に育成していった。良妻賢母の鑑のような女性で、ブラームスが惹かれたのもわかる気がする。

だが、それから間もなくシューマン一家に不幸が訪れた。長年精神障害を患っていたシューマンが、川に飛び込み入水自殺を図ったのだ。

幸い未遂ですんだものの、本人の希望でそのまま精神病院に入院した。クララは面会することすら叶わなかった。

あろうことか、シューマンが自殺未遂をしたのは妻と弟子との不倫を疑った結果だ。口さがない人々の噂に、クララは苦しめられた。

それから数年後、シューマンは亡くなった。まだ46歳という働き盛りだった。この事が、クララとブラームスの間に薄い膜を張ることとなる。

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