クラシック音楽あれこれ

クラシック音楽のことをメインに語ります。

2020-01-01から1年間の記事一覧

「革命」は革命に非ず?:後編

体制派か反体制派か。ショスタコーヴィチの交響曲第五番について語る時、必ずどちらで見るかで評価が分かれる。 ショスタコ自身が、後年共産党員になったことを考えると、アンチにとっては体制迎合の作曲家として批判したいところだろう。 ましてやヴォルコ…

「革命」は革命に非ず?:前編

ドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲第五番。我が国では「革命」の副題が(他は、中国・韓国)つけられている名曲である。 多少マニアックともいえるショスタコーヴィチという作曲家を語る上で、まず筆頭に挙げられるのがこの第五番だ。 ショスタコーヴ…

ブラームスその愛と死:後編

クララ・シューマンは夫との間に、八人(長男は早世)の子供をもうけていた。夫ロベルトが亡くなったからといって、彼女には悲嘆に暮れている暇はなかった。 ピアニストとしてピアノ教師として類い稀な才能を発揮していたクララは、自らの腕一本で子供たちを育…

ブラームスその愛と死:前編

ブラームスは苦労人である。家計の足しにと、少年時代から場末の酒場でピアノを弾いてお金を稼いでいた。 ある時、ピアノの大家であるフランツ・リストの個人レッスンを受ける幸運に恵まれた。もっとも両者にとっては、不幸な出会いに終わった。 リストが模…

ワーグナー愛の詩:後編

妻と師匠のダブル不倫に対して、ハンス・フォン・ビューローは紳士的かつ大人の対応をした。 妻コジマの出産を容認しただけでなく、ワーグナーが間もなく奥さんを亡くすと彼の元にコジマを生まれたばかりの女児ごと送り出したのだ。 いくら尊敬する師匠とは…

ワーグナー愛の詩:前編

リヒャルト・ワーグナーの生涯というのは、良く言えば破天荒悪く言えばデタラメ三昧といえた。 ベートーヴェンの第九に感銘を受けて作曲家への道を歩んだにも関わらず、革命運動に足を踏み入れ亡命生活を余儀なくされた。 また借金をしているにも関わらず、…

「英雄」の証明

ベートーヴェンがまだ第九を作曲する前の話。ある時、人に、 「あなたの今まで作曲した交響曲の中で、最高傑作と呼べるものはなんですか?」 と、尋ねられた。 ベートーヴェンは迷うことなく、 「第三番『英雄』です」 と即答した。第五番だと答えると思った…

クラシック界のニ・八

ベートーヴェンの交響曲は、渋面をしながら聴かなければいけない。もしも未だにそんな固定概念に凝り固まって聴いてない人がいたとしたらもったいない! 何から聴いたらと迷っている人には、まず第ニ番をお勧めする。これはかの有名なハイリゲンシュタットの…

続・暗闇に響け、ブルックナー

朝比奈隆先生は、私にブルックナーの交響曲第八番の魅力を教えてくれた恩人だ。 たしか1994年頃だと思う。当時先生が手兵の大阪フィルを率いて、東京のサントリーホールで振った第八番のライヴCDを買い求めた。 名盤だった。ブルックナーの第八に耽溺してい…

カラヤン嫌いのあなたへ

新時代を背負って立つ存在だったからだろうか。ヘルベルト・フォン・カラヤンは、往年の名指揮者と称された先輩たちと折り合いが悪かった。 フルトヴェングラーのカラヤン嫌いは病的とさえいえた。 大戦中、ナチスによって「奇跡のカラヤン」と大々的に持ち…

そして伝説へ

1954年11月30日に、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが静養先のスイスのバーデンバーデンで息を引き取った。 死因は肺炎で、まだ68歳という働き盛りでの逝去だった。 欧州全体で哀悼の意を伝えられ、誰が次のベルリン・フィルの首席指揮者になるかが注目さ…

幻の指揮者

セルジュ・チェリビダッケをご存じだろうか。生前、レコードやCDといった録音媒体を遺すことを頑なに拒否した指揮者である。 ついた渾名が"幻の指揮者"。演奏会へ行かなくては聴けないことから、賛嘆と揶揄の意味も込めてそう呼ばれた。 世は録音全盛の時代…

モーツァルト礼讃

作曲家の中には、モーツァルトを崇拝する者が少なくない。 ベートーヴェンもその一人だった。ウィーンで、作曲家としてよりまだピアニストとして活躍していた頃のエピソード。 ある晩、友人と街中を歩いていた時どこかの家からピアノの旋律が聞こえてきた。…

ベートーヴェンの大予言!?

天才といえども、時代の流れに流され染まっていくのは抗し難い。その点、ベートーヴェンも例外でなかった。 10代の終わりにまだ故郷のボンにいた頃、フランスで一大変事が起こった。フランス革命である。 自由・平等・博愛をスローガンにした革命の精神に、…

滝廉太郎の孤独

滝廉太郎(1879〜1903)がドイツ留学した際の孤独感というのは、今では想像のしようがあるまい。 単なるホームシックではない。自分が頑張らなければ、日本の音楽教育はそれだけ遅れるという気概との葛藤もあったはずだ。 滝一人に限ったことではない。有名ど…

クナのスタイル

クナことハンス・クナッパーツブッシュ(1888〜1965)は、ワーグナーやブルックナーで数々の名演を遺した指揮者である。 私は20代の頃、彼がミュンヘン・フィルを振ったブルックナーの交響曲第8番をアナログレコードで聴いて以来、ブルックナーの虜となってし…

ある思想家の嘆き

丸山眞男という政治学者がいた。良くも悪くも、戦後日本に多大な影響を与えた。 この丸山が、フルトヴェングラーの生涯を振り返る著作で対談をしていた。後のお二方については、名前も発言も失念してしまった。 ドイツが生んだ大指揮者について礼賛したのか…

「未完成」は未完なのか

1933年にオーストリア映画で、「未完成交響楽」というのがあった。あらすじは、貧しい作曲家シューベルトが貴族の娘と恋に落ちるというもの。 結局恋は実らず、彼はかつての恋人の結婚式でピアノ曲を弾く。そして楽譜に、 "我が恋が成らざるようにこの曲も未…

ベートーヴェンの場合

失恋はある種の人(天才と断言してもいい)に名曲を書かせる。前回取り上げたベルリオーズなどはそれが元で、代表作中の代表作となった「幻想交響曲」を生み出した。 さて、ではあの楽聖の場合はどうなのか。言わずと知れたベートーヴェンである。有名なのは、…

「幻想交響曲」の戦慄

フランスが産んだ大作曲家ルイ・エクトル・ベルリオーズ。彼の代表作といえば、言わずと知れた「幻想交響曲」である。1830年27歳の時のこと。 古典派の最後の巨匠であったベートーヴェンがウィーンで亡くなって、まだ僅か3年。翌年に弱冠31歳で亡くなったシ…

因果応報

もっとも被害を被ったのはブルックナーだった。彼は交響曲第3番をワーグナーに捧げたほどのワグネリアンであったことが、ハンスリックの癇に触ったと見える。 主に交響曲を作曲していたブルックナーは、新作を発表する度に冷笑でもって迎えられた。 彼の交響…

死刑執行人

「私は、自分が破滅させたい者を破滅させることができる」 もしもあなたが、面と向かってこんな言葉を投げかけられたらどうするだろう。反発するか震え上がるかのどちらかであろう。 実際これを言われたのが、長大な交響曲を量産したアントン・ブルックナー…

威風堂々と

かつて文芸評論家の小林秀雄(1902〜1983)は、モーツァルトの交響曲第40番を聴いて「無常といふ事」という一文を書いた。 モーツァルトを聴いてそこに無常を見出すあたり、西欧文明に追いつけ、追い越せと息せき切って吸収した明治人らしい発想といえなくもな…

神か悪魔か

ハンス・クナッパーツブッシュ。彼の奏でる音楽を聴くと、時々人智を超えた神秘の世界へと誘われる気分になる。 たとえば1957年、フルトヴェングラー没後3年を追悼したベルリン・フィルとのブラームス交響曲第3番を聴いてみるがいい。 本来なら悲劇的なはず…

聖地へ

2002年8月某日、私は神戸に来ていた。先年の暮れに亡くなった朝比奈隆先生の追悼コンサートに行くためだ。 朝比奈先生や作家の筒井康隆が居住していたということで、神戸はいわば聖地といえた。 私が朝比奈先生の逝去を知ったのはたまたま偶然だった。その頃…

「第九」蠢動

毎年年末になると、恒例の第九が全国津々浦々で演奏される。どうして第九こと、ベートーヴェンの交響曲第9番はここまで私たちを惹きつけるのだろう。 普段はお客が入らなくて懐事情が苦しい楽団側が、年末の掻き入れ時に始めたのが走りとも言われる。 ベート…

朝比奈隆誕生の瞬間

1953年か54年頃の話だという。当時の西ドイツの首都ベルリンに、一人の中年日本人が訪れた。 年の頃が40代半ばであったから、普通の人間ならば人生の終着点が見えてもおかしくない。 だが、男は指揮者だった。敗戦後の日本には何が必要か。そのヒントを探る…

フルトヴェングラーという天才

「夫にとって、ベートーヴェンは神そのものでした」 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)について、未亡人のエリザベトは度々そう語っていたという。 "(生涯得意にしていた)ベートーヴェンですら神様扱いしていたのだから、ブラームスなど人そのも…

哀しみの向こう側

「ブラームスの(交響曲)第4番は名曲だよ」 専門学校時代の恩師のこの言葉がなかったら、私がブラームスに深入りするきっかけは遅くなったかもしれないしあるいは永久に来なかったかもしれない。 なにしろ当時の私といえば、宇野功芳の唱えるクラシック音楽観…

「運命」はかくの如く扉を叩く

ベートーヴェン交響曲第5番。俗に「運命」ともいう。ただしこの副題は、我が国日本だけのことらしい。 明治時代にこの交響曲が入る際、ベートーヴェンがこの曲を書いた経緯を弟子に尋ねられたところ、 「運命はかくの如く扉を叩く」 答えたエピソードがある…