クラシック音楽あれこれ

クラシック音楽のことをメインに語ります。

朝比奈隆誕生の瞬間

1953年か54年頃の話だという。当時の西ドイツの首都ベルリンに、一人の中年日本人が訪れた。

年の頃が40代半ばであったから、普通の人間ならば人生の終着点が見えてもおかしくない。

だが、男は指揮者だった。敗戦後の日本には何が必要か。そのヒントを探るために、ドイツ音楽のメッカともいうべきベルリンへと赴いた。

ードイツならさしずめ、ベートーヴェンだろう。

思いつつも、男の中ではもう一人の作曲家も気になっていた。というより、西ドイツを訪れた主題は正にその一点に尽きていた。

「君は日本人か?」

尋ねられて男は振り返った。緊張で表情が強張った。その人物には見覚えがあった。いや、恐らく世界中でドイツ音楽に関わっている人間で、彼の名前や顔を知らない者がいたかどうか。

フルトヴェングラーだ!

初めて間近に見る名指揮者に、この日本人が襟を正したのも無理からぬことといえた。ソファーに座って足を組んでいたそのマエストロは、ベルリンに来た目的を尋ねてきた。

ブルックナーについて研究したいと思っています」

緊張でたどたどしく話してくる日本人に、フルトヴェングラーはほう、と、目を細めた。そして、ただ一言だった。

「オリジナル」

聞き返す暇もなかった。時間だとばかりに、この巨匠は振り返りもせずに立ち去った。何かの謎かけなのか。男は可能な限りの、ブルックナーの楽譜に目を通した。

驚いた。なんと、ブルックナー交響曲においては、何種類もの楽譜が存在していることを初めて知ったのである。なぜ?詮索したかったが時間はない。

男は当時、最もブルックナーの主旨に一番近いとされたハース版の楽譜を買い漁った。そして帰国の飛行機へと飛び乗った。

後のブルックナー指揮者、朝比奈隆が誕生した記念すべき瞬間であった。そして同世代として意識したカラヤンが君臨するのは、これから間もなくのこととなる。

 

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