私の時代が来るまで:後編
1939年9月1日、第二次世界大戦勃発。ブルーノ・ワルターは命からがらヨーロッパを脱出した。亡命先はアメリカだった。
戦火を逃れるためでもある。それ以上にヒトラー率いるナチス・ドイツが欧州全体を席巻しかねない勢いだったからだ。
ナチスはユダヤ人迫害を国是としていた。何よりワルター自身、ゲッペルス宣伝相にドイツに留まっていたら命の保証はないと脅されていた。
ウィーンに逃れたが1938年にオーストリアがドイツに併合されると、再び路頭に迷った。
イタリアからアメリカに拠点を移していたトスカニーニに誘われるように、海を渡り異国の地に居を定めた。
なんという皮肉だろう!マーラーも晩年の数年間は、ヨーロッパ楽壇から追い出されるようにしてアメリカへ渡った。まさか同じようにユダヤ人という理由だけで。
この時の心労がよほど腹に据えかねたのだろう。戦後ワルターは、フルトヴェングラーが演奏旅行のため渡米すると聞いた際、強硬に反対した一人となった。
彼にとっていかなる理由があるにせよ、かつての同僚がドイツを離れずナチスの広告塔のように働いたことは断じて我慢できなかったのだろう。
アメリカに居を定めたワルターは、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(後のニューヨーク・フィルハーモニック)で指揮を取った。
1943年11月というからまだ戦時中である。彼は急病で指揮台に立てなくなってしまった。
この時まだ弱冠25歳の副指揮者が代役を務め、見事に大成功を収めた。
若者の名前はレナード・バーンスタインといった。戦後ヘルベルト・フォン・カラヤンと人気を二分した名指揮者である。
バーンスタインはユダヤ系アメリカ人だった。長年の因習でユダヤ人が虐げられていたヨーロッパに比べると、アメリカはユダヤ人にとって住みやすい土地柄といえた。
何よりアメリカの生え抜きの指揮者ということが、この若者を熱狂的にスターダムへと押し上げた。
ユダヤ人であるがゆえに、この世には自分の故郷はない。かつてマーラーは吐き捨てるように世をはかなんだ。
だが、マーラーがもう少し長生きしていたらアメリカは彼にとって、案外住みやすい場所になっていたかもしれない。
ある意味、弟子と言っていいワルターが亡命し、同じユダヤ系としてバトンタッチされた形のバーンスタインが、その後孫弟子のようにマーラーの普及に努めた。
ワルターは戦後、度々ウィーンへ舞い戻り得意とするモーツァルトとマーラーを振った。特にマーラーの交響曲「大地の歌」は、彼の総決算というべき名盤を生み出した。
マーラー生誕100周年を迎えた2年後の1962年、ワルターは85年の波乱に満ちた生涯を終えた。
そしてこの60年代に彼らを追悼するかのように、バーンスタインがマーラー交響曲全集を指揮し世界的なブームとなった。彼の、マーラーの時代がようやく来たのだ。
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