「未完成」は未完なのか
1933年にオーストリア映画で、「未完成交響楽」というのがあった。あらすじは、貧しい作曲家シューベルトが貴族の娘と恋に落ちるというもの。
結局恋は実らず、彼はかつての恋人の結婚式でピアノ曲を弾く。そして楽譜に、
"我が恋が成らざるようにこの曲も未完成なり"
と、シューベルトは書き記す。以降この映画により、彼の交響曲第8番(現在は第7番)「未完成」が有名になったという。
むろん映画自体はフィクションだが、一つの曲にイメージをつけたのは確かだ。さて「未完成」である。シューベルト自身がつけたわけでないこの副題、どこまで真実を捉えているのだろう。
実際第二楽章までしか完成されておらず、第三楽章らしいメモが散見していたことから未完といっていいのは確かだ。
実際、たしかウィーンにおいてこの曲を完成させた者に賞金をという話もあったそうだ。どうにか完成を試みたものの、殆どが失敗に終わっているとのこと。
しかし考えてみると当然といえる。この曲の旋律の美しさはシューベルトならではであり、彼以外には生み出し得ないものといえる。
果たしてシューベルトが長生きしたなら、この交響曲の続きを作曲したか気にはなる。仮に筆を執っていたら、更に極上の作品になっていたかもしれない。
それだけに31歳という、夭逝としか言いようのない最期が惜しまれる。モーツァルトでさえ、35歳までは生きたというのに。
作曲家の死で頓挫したという意味では、間違いなく「未完成」交響曲は未完であるとしか言わざるを得ない。
だが、同時に全二楽章で演奏時間約25分ほどのこの作品が完成度の高い交響曲と捉えても差し支えない。
私たちは、シューベルト本人でもこれ以上は表現のしようがなかったと我が身を慰めることでこの曲の美しさにただただ没入していくしかない。
そう、無限の可能性を感じさせるのが「未完成」の醍醐味なのだろう。
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