クラシック音楽あれこれ

クラシック音楽のことをメインに語ります。

幻の指揮者

セルジュ・チェリビダッケをご存じだろうか。生前、レコードやCDといった録音媒体を遺すことを頑なに拒否した指揮者である。

ついた渾名が"幻の指揮者"。演奏会へ行かなくては聴けないことから、賛嘆と揶揄の意味も込めてそう呼ばれた。

世は録音全盛の時代だった。

戦後になってから録音技術は良きにつけ悪しきにつけ飛躍的に発展し、どんな演奏家のものもレコードからCDという形で今日まで遺された。

カラヤンなどはこの新時代の最新技術にいち早く反応した。

レーザーディスクやCDといった媒体が出る度に指揮者のステータスであるベートーヴェン交響曲全集を度々録音し直した。

生前は一部の評論家から、芸術家を真似たサラリーマンと酷評されたカラヤンも数多くの録音を遺したことで、没後再ブレークを果たした。

彼には先見の明があったということだ。

対して往年の名指揮者は録音媒体に懐疑的だった。

アルトゥーロ・トスカニーニといった例外を除けば、レコードという媒体に記録を遺すことに積極的ではなかった。

フルトヴェングラーもその一人だった。チェリビダッケが師と仰いだこの大指揮者は、技術上録音には演奏中に中断を伴うという欠点を遂に理解できなかった。

チェリビダッケは師の苛立ちを理解しつつ、ならば録音など遺さなければいいと極論に立った人だった。

フルトヴェングラーをして自分の後継者と言わしめ、実力も十分にあったチェリビダッケ

なぜ彼が、その後幻の指揮者として歩むことになったのか。大の録音嫌いも起因している。

それ以上に、フルトヴェングラーの後継者としてベルリン・フィルを率いることがなかったのが大きかったのではないか。

チェリビダッケは練習熱心で、音楽に対してどこまでも真摯な姿勢を崩さなかった。

そこがフルトヴェングラーをして、年下の盟友と全幅の信頼を寄せられた所以であろう。

この稿、続く。

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モーツァルト礼讃

作曲家の中には、モーツァルトを崇拝する者が少なくない。

ベートーヴェンもその一人だった。ウィーンで、作曲家としてよりまだピアニストとして活躍していた頃のエピソード。

ある晩、友人と街中を歩いていた時どこかの家からピアノの旋律が聞こえてきた。モーツァルトの曲だった。

先を行こうとする友人の腕を摑み、ベートーヴェンはうっとりとした様子で、

「聴いてみたまえ!我々の仕事は、モーツァルトの足元にも及ばないなあ」

賛嘆することしきりだったという。彼は後年まで、モーツァルトへの尊敬の念を隠さなかった。

「新世界」交響曲で有名なドヴォルザークは、音楽学校の校長に就任した際、講義でモーツァルトとは何者かと皆に問うた。

誰も答えない中、窓の外を見なさいと生徒たちに告げた。外は陽当たりの良い青空だった。

まだ、わからないかね。返事に窮していた生徒たちに向かって、彼は力強く答えた。

「覚えておきなさい。モーツァルトは太陽そのものです!」

リヒャルト・シュトラウスは、生前指揮者と作曲家を兼務していた。その体験もあろう。多くの曲をオーケストラの前で指揮していた。

そんな彼がしばしば語っていたのは、モーツァルト交響曲第41番「ジュピター」だった。

シュトラウスはこう語った。

「ジュピター交響曲は、私がこれまで聴いた交響曲の中で最高のものだった。
終楽章のコーダを聴いた時、私は天上にあるかのような心地がした」

最後にグスタフ・マーラー。生前は作曲家としてよりも指揮者として注目されることに、彼は不満を抱いていた。

「いつか私の時代が来る」

弟子のブルーノ・ワルターなどに予言めいたことを語ったが、生前は遂にベートーヴェンを意識した長大な交響曲の数々は評価されなかった。

世間の無理解と激務で心臓に爆弾を抱えた彼は、50歳でこの世を去った。

最期は病床で微笑みながら、こう叫んで事切れた。

モーツァルトモーツァルトモーツァルト!」

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ベートーヴェンの大予言!?

天才といえども、時代の流れに流され染まっていくのは抗し難い。その点、ベートーヴェンも例外でなかった。

10代の終わりにまだ故郷のボンにいた頃、フランスで一大変事が起こった。フランス革命である。

自由・平等・博愛をスローガンにした革命の精神に、たちまち彼は虜になりそれから長い間共和制こそ理想の政治体制だと唱えるようになる。

楽家として一旗揚げるつもりで出てきたウイーンでもその考えは変わらず、やがてイタリア遠征を成功させたナポレオン・ボナパルトに傾倒する。

ベートーヴェンがいかにこの、時の英雄を尊敬していたか。彼の交響曲における最初の傑作として位置づけられる第3番に、明確に刻印されているくらいだ。

初演時には"天国的な長さ"と酷評され、ある貴族に至っては、

「途中で(演奏を)止めてくれたら、金はいくらでも出す」

と根を上げたほどだ。現在、「英雄」という副題がつけられたこの曲は良くも悪くも画期的な作品であった。

この曲を、ベートーヴェンがナポレオンに捧げようとしていたことはあまりに有名である。

ところが変事が起きた。ナポレオンがフランス皇帝へと戴冠したのである。正に青天の霹靂だった。

貴族の娯楽のために音楽が消費されていくのに我慢がならず、音楽は万人のためになければならないと信じていたベートーヴェン

だからこそ共和制を信奉していたし、ナポレオンをその体現者として崇めた。

裏切られたと思った瞬間、楽譜に記した"ナポレオン・ボナパルトに捧ぐ"の文字をペンで激しく掻き消した。そして別のパトロンに捧げてしまった。

"ある英雄の思い出に"

と書き添えて。

ベートーヴェンがいかにナポレオンに対して、激しい愛憎の念を抱いたか。

後年没落し、流刑先のセント・ヘレナ島で亡くなったと聞いた際、

「私は、今日(こんにち)あることを予想していた」

「英雄」の第二楽章である"葬送行進曲"を例に上げて、稀代の英雄をこき下ろした。

 

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滝廉太郎の孤独

滝廉太郎(1879〜1903)がドイツ留学した際の孤独感というのは、今では想像のしようがあるまい。

単なるホームシックではない。自分が頑張らなければ、日本の音楽教育はそれだけ遅れるという気概との葛藤もあったはずだ。

滝一人に限ったことではない。有名どころでは夏目漱石、無名でも明治日本の留学生は、一人、一人国を背負っているという使命感があった。

滝は国内では、「花」、「荒城の月」といった名曲を次々と作曲した。これらの唱歌は現在でも歌い継ぐに値するもので、正に一級品といって差し支えない。

とはいえ、当時の我が国では優秀な人材は欧米へ留学しなければいけないという強迫観念に近い思いがあった。

欧米に追いつき追い越さなければ、他の東南アジア諸国のように欧米の植民地にされてしまうかもしれない。

この恐怖感が明治日本人を突き動かしていたことを頭に置かなければ、滝や当時の日本人留学生の使命感はわかりにくい。

ドイツへ留学した彼は、ただただ圧倒された。日本国内で行ってきた自分の作曲が児戯に思えたに違いない。

これからはドイツのクラシック音楽が世界の潮流になる。そう確信した滝は死にもの狂いで学んだ。

決してこれは彼一人に限ったことではない。自分が1日怠ければ、その分だけ国家の存亡に関わる。

そう信じてやまない日本人が多数を占めていた。その点では滝廉太郎という人物も、思いを共有していた。

その彼が孤独に苛まれたのは、間もなく肺結核に冒されてからだ。当時不治の病だっただけに、滝の絶望感は察して余りある。

結局志半ばで帰国せざるを得なかった。

彼がいかに無念であったか、亡くなる数ヶ月前の絶筆となった曲のタイトルが「憾(うら)み」となっているだけでも充分に想像できる。

結局、24歳の誕生日を迎える2ヶ月前に故郷大分県の自宅で息を引き取った。残念の一言である。

 

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クナのスタイル

クナことハンス・クナッパーツブッシュ(1888〜1965)は、ワーグナーブルックナーで数々の名演を遺した指揮者である。

私は20代の頃、彼がミュンヘン・フィルを振ったブルックナー交響曲第8番をアナログレコードで聴いて以来、ブルックナーの虜となってしまった。

ワーグナーブルックナーを得意としていたことからもわかる通り、彼の演奏スタイルは悠々と迫らぬいわゆるスローテンポのものが多い。

ただしこれは、年を取って三半規管に障害を抱えた結果のものだった。若い頃は相当ムチャクチャな指揮もしていたとのことである。

たとえばハイドン交響曲を、それはそれは考えられないスピードで振ったこともあるという。

これには我が国におけるクナの熱狂的ファンであった宇野功芳も唖然とし、

"ふざけるにも程がある。"   

苦笑混じりに記しているくらいだ。クナが40代50代の頃は、レコードがいよいよ普及していたのだが頭からこの最新技術を馬鹿にしていた。

宇野によれば、クナは録音マイクに入りきらない点に自分の芸術性の高さを信じていたという。

再現性のあるレコードより、一回、一回のライヴ演奏に命を賭けて遊び抜いた。

だからこそ、戦後録音技術が更に発展しても懐疑的で、クナに惚れ込んだ音楽プロデューサーの懇願で仕方なしに録音に携わった。

ワーグナーの大作「ニーベルングの指環」四部作を全曲録音する際、プロデューサーはクナを指名したが、

「そんな面倒臭いことは嫌だ」

の一言で断ってしまった。現在戦後初の、「〜指環」全曲の録音はゲオルグショルティがその名誉を担った。クナファンには残念な限りだが。

最後にもう一つ。我が国の指揮者岩城宏之が、ウイーンに出向いた際クナのように抑制の効いた指揮で振ろうとした。

するとウイーン・フィルの面々、

「クナは若い頃ムチャクチャなテンポで振っていた。ああいう、のんびりとしたスタイルは年を取ってから獲得した。

だからお前も若いうちは冒険をしたほうがいい」

と言ったそうな。クナのスタイルの変遷と、彼がこのオーケストラに愛されていたことがわかるエピソードといえる。

※訂正とお詫び

1月18日の記事「神か悪魔か」において、クナッパーツブッシュシューベルトの「軍隊行進曲」をスローテンポで振ったことにウイーン・フィルが質問したと記しました。

正確にはハイドン交響曲第88番でした。この場を借りて訂正とお詫びを致します。

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ある思想家の嘆き

丸山眞男という政治学者がいた。良くも悪くも、戦後日本に多大な影響を与えた。

この丸山が、フルトヴェングラーの生涯を振り返る著作で対談をしていた。後のお二方については、名前も発言も失念してしまった。

ドイツが生んだ大指揮者について礼賛したのかもしれないが、忘れているということはありきたりな発言だったのかもしれない。

この対談で丸山は、フルトヴェングラーの業績を認めつつもナチスに協力したことに苦言を呈していた。

その攻め口が実にねちねちとした感じで、フルトヴェングラーを尊敬する一人として不快に思った記憶がある。

彼の名指揮者が、ナチスドイツの圧政の下進んで演奏会でタクトを振ったこと、それは紛れもない事実だ。

しかし、それは彼が自分と親交のあったユダヤ人の楽員や音楽家が国外に逃亡するのを助けたという複雑な事情があった。

フルトヴェングラーは、自らの経歴に傷がつくのを承知の上でヒトラーに屈服した。

その裏でナチスドイツの国是というべきユダヤ人迫害を、個人の許す限りで食い止めようとしていた。

政治音痴とも揶揄されるが、一人でも多くのユダヤ人を救おうとした点でフルトヴェングラーは人として誇り高い振る舞いをした。

丸山如きが、後世の後知恵であれこれ口出しすべきではない。

反面丸山は、大学時代の友人が後年オーストリア大使館で働くことになった話に触れている。

その彼は、大学時代ボートを漕ぎながら校歌を歌う程度の教養しか持ち合わせてないと、軽蔑気味に語っている。

その友人が、偶然ウィーン・フィルを振るフルトヴェングラーの演奏会に訪れ、思わず涙してしまったというのだ。

ここで丸山は嫉妬気味に語る。なんで、天は自分ではなくあの音楽音痴な奴にフルトヴェングラーを聴く機会を与えたのか、と。

答えは簡単である。人の生きざまを嫌味ったらしく語る御仁に、フルトヴェングラーを聴く資格などないのだ。その一言に尽きる。

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「未完成」は未完なのか

1933年にオーストリア映画で、「未完成交響楽」というのがあった。あらすじは、貧しい作曲家シューベルトが貴族の娘と恋に落ちるというもの。

結局恋は実らず、彼はかつての恋人の結婚式でピアノ曲を弾く。そして楽譜に、

"我が恋が成らざるようにこの曲も未完成なり"

と、シューベルトは書き記す。以降この映画により、彼の交響曲第8番(現在は第7番)「未完成」が有名になったという。

むろん映画自体はフィクションだが、一つの曲にイメージをつけたのは確かだ。さて「未完成」である。シューベルト自身がつけたわけでないこの副題、どこまで真実を捉えているのだろう。

実際第二楽章までしか完成されておらず、第三楽章らしいメモが散見していたことから未完といっていいのは確かだ。

実際、たしかウィーンにおいてこの曲を完成させた者に賞金をという話もあったそうだ。どうにか完成を試みたものの、殆どが失敗に終わっているとのこと。

しかし考えてみると当然といえる。この曲の旋律の美しさはシューベルトならではであり、彼以外には生み出し得ないものといえる。

果たしてシューベルトが長生きしたなら、この交響曲の続きを作曲したか気にはなる。仮に筆を執っていたら、更に極上の作品になっていたかもしれない。

それだけに31歳という、夭逝としか言いようのない最期が惜しまれる。モーツァルトでさえ、35歳までは生きたというのに。

作曲家の死で頓挫したという意味では、間違いなく「未完成」交響曲は未完であるとしか言わざるを得ない。

だが、同時に全二楽章で演奏時間約25分ほどのこの作品が完成度の高い交響曲と捉えても差し支えない。

私たちは、シューベルト本人でもこれ以上は表現のしようがなかったと我が身を慰めることでこの曲の美しさにただただ没入していくしかない。

そう、無限の可能性を感じさせるのが「未完成」の醍醐味なのだろう。

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