クラシック音楽あれこれ

クラシック音楽のことをメインに語ります。

ワーグナー愛の詩:後編

妻と師匠のダブル不倫に対して、ハンス・フォン・ビューローは紳士的かつ大人の対応をした。

妻コジマの出産を容認しただけでなく、ワーグナーが間もなく奥さんを亡くすと彼の元にコジマを生まれたばかりの女児ごと送り出したのだ。

いくら尊敬する師匠とはいえ、ここまでやるかと傍目から見て思わずにはいられない。

もっともビューローが甘い顔をしたのもここまでで、彼は間もなくアンチワーグナー派のブラームスやハンスリックの元へ走ってしまう。

やはり不倫というか略奪愛の代償は大きかったというべきか。以後、ワーグナー派とブラームス派の醜い対立が展開されることになる。

まあ、それはそれとして。

その後ワーグナーは、新妻コジマと我が世の春を謳歌していく。世間から見れば許されざるものであったとしても、ワーグナーは歯牙にかけなかった。

ある意味、この図太さこそが彼をして従来のオペラの範疇を超えた楽劇と称される一大芸術世界を生み出し得た原動力と見られないこともない。

いずれにせよ、コジマを得たことで彼はようやく家庭を築くことの喜びに触れたといえる。

やがて妻が長男ジークフリートを出産したことで、感謝の念は更に強くなる。そして妻のために、密かなる計画を立てる。

1870年12月25日、この日はクリスマスであると同時にコジマの誕生日でもあった。

朝目覚めてみると夫の姿がない。庭から音がする。

何事かと思って庭へ通じる階段を降りていくと、それを待ち受けたかのように小編成のオーケストラが曲を奏でた。

これが後に、「ジークフリート牧歌」と名付けられる名曲の初演だった。

穏やかで愛の喜びを歌い上げているかのようなその旋律に、コジマはいたく感動した。

彼女がいかにこの曲を愛したか、それから8年後にプライベート用に作曲されたこの曲が出版される際、なかなか首を縦に振らなかったことからも窺える。

おかげで後世の私たちは、この名曲に接することができた。

※予定より、1日遅れてしまい申し訳ありません。

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ワーグナー愛の詩:前編

リヒャルト・ワーグナーの生涯というのは、良く言えば破天荒悪く言えばデタラメ三昧といえた。

ベートーヴェンの第九に感銘を受けて作曲家への道を歩んだにも関わらず、革命運動に足を踏み入れ亡命生活を余儀なくされた。

また借金をしているにも関わらず、その借金取りの妻と肉体関係となり命を狙われた。

この時の金貸しがユダヤ人であったことから、終生ユダヤ人を憎んだという。言うなれば自業自得なのに、なんて男だという感じである。

こんな彼がハンスリックという、楽壇の大物評論家に睨まれたのもそのモラルのなさも原因していただろう。

いくつかのオペラを手掛けて、ブルックナーフーゴー・ヴォルフといった熱狂的な支持者を得た。

しかしハンスリックのほうは冷笑をもって迎え、あんなものは邪道だと糞味噌にけなした。

これが後の、ワーグナー派とブラームス派という音楽史上不毛な争いの元となる。

それはいい。

作曲家だけではまだ食えなかった頃、ワーグナーは指揮者としても活動していた。これがメンデルスゾーンと共に職業指揮者の始まりとなる。

彼に憧れて、弟子入りした男がいた。ハンス・フォン・ビューロー。後のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の初代常任指揮者となる男である。

ワーグナーにしてみれば渡りに船だった。作曲に専念するためには、ビューローの協力は是非とも必要だ。正に運命の出会いといえた。

しかし彼にとっての出会いは、別なところにあった。コジマ・フォン・ビューロー、彼女との出会いこそがワーグナーの人生を変えていった。

ビューローの妻であるコジマに、彼はたちまち魅了された。お互い結婚している身でありながら、二人は共に惹かれていった。

不倫の結果はたちまち形となって現れた。コジマがワーグナーの子を身ごもった。スキャンダルは瞬く間に拡がっていった。

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「英雄」の証明

ベートーヴェンがまだ第九を作曲する前の話。ある時、人に、

「あなたの今まで作曲した交響曲の中で、最高傑作と呼べるものはなんですか?」

と、尋ねられた。

ベートーヴェンは迷うことなく、

「第三番『英雄』です」

と即答した。第五番だと答えると思ったその人は、

「第五番ではないのですか?」

繰り返し尋ねた。ベートーヴェンは更に自信満々に、

「いいえ、『英雄』です」

当たり前のことを聞くなと言わんばかりに答えた。

生前は決して評判の良くなかった第三番だが、彼にとってはまさしく「英雄」と呼んで差し支えない代物だったのだろう。

実際私など、学生時代は「英雄」を聴かなければ生きた心地がしないというほど、この交響曲に夢中になっていた時期があった。

数ある演奏の中でも、フルトヴェングラーウィーン・フィルを振ったいわゆるウラニア版というものに耽溺した。

第一楽章の出だしからして素晴らしい。瑞々しく正に今、英雄が戦いに臨むような高揚感を醸し出していた。

思えばその前の第二番は、前向きに生きようとする決意表明のような曲だった。

とはいえ、果たして第二番から「英雄」へと進化することをどれだけの人が予想し得たろう。

その意味で、第二番から第三番への移行は奇跡に近い。ベートーヴェンが偉大だと思わされるのは、正にこの一点に尽きる。

もちろん当時彼が崇拝していた、フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトの影響もあっただろう。

それを単なる追従音楽ではなく、ナポレオンと同等のあるいはそれ以上の英雄的精神で臨んだからこそ、第三番は生み出し得たのではないか。

誰の言葉か失念したが、

「ナポレオンは死んだが、ベートーヴェンは生きている」

というのは、時代を超越した傑作を送り出したベートーヴェンへの最大の餞と言ってもいい。

「英雄」について語り出したら際限がない。それだけの魅力がある。

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クラシック界のニ・八

ベートーヴェン交響曲は、渋面をしながら聴かなければいけない。もしも未だにそんな固定概念に凝り固まって聴いてない人がいたとしたらもったいない!

何から聴いたらと迷っている人には、まず第ニ番をお勧めする。これはかの有名なハイリゲンシュタットの遺書を書いた後に作曲されたものだ。

ここには難聴になったことに悲観して、死まで考えたベートーヴェンの絶望感など微塵も感じられない。

あるのはこの先何があっても明るく前向きに生きようとする、彼の決意表明さえ感じられる。

恐らくこれを作曲しなかったなら、第三番「英雄」という傑作は生み出し得なかっただろう。

そういった意味でも、この第ニ番は重要な作品でありベートーヴェンの微笑みすら彷彿とさせる快活なものだ。

ベートーヴェンを原点とする私にとっても、時々勇気を分けてもらう交響曲である。

次に第八番。後にワーグナーに"舞踏の聖化"と称えられた第七番と共に発表された。

生前は決して評判の良くなかったこの第八が、第ニと同じくらい大好きである。

ベートーヴェン交響曲というと、誰もが「英雄」、第五番、第九を推す中、このニ・八を聴かなければ真のベートーヴェン愛好家といえないと、私は提言したい。

第ニの頃と比べると、さすがにベートーヴェンも老獪というか手慣れてきている。

序奏部のあたりがうまく出ないと、その後がなんかしっくりこない。その意味では、運命の動機で有名な第五番によく似ている。

だからこそ音がうまく揃った時の高揚感は、たとえようもないほど素晴らしい。

ここではベートーヴェンは人生を深刻にでなく、豪快に笑い飛ばしているようにさえ聴こえる。

ここから第九誕生までは十年以上を要す。その意味では、彼は交響曲という分野ではやるべきことをやり尽くしたと思ったのかもしれない。

その上で第九が生まれたのだから、これが非凡というのだろう。

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続・暗闇に響け、ブルックナー

朝比奈隆先生は、私にブルックナー交響曲第八番の魅力を教えてくれた恩人だ。

たしか1994年頃だと思う。当時先生が手兵の大阪フィルを率いて、東京のサントリーホールで振った第八番のライヴCDを買い求めた。

名盤だった。ブルックナーの第八に耽溺していたあの頃、CD・レコードに関わらず集めまくっていた私にとっては、最高傑作だと確信できた。

休みの日に暇さえあれば聴き、終演後のブラボーと拍手の時には自分も一緒になって、CDコンポの前で拍手していた。

思えば幸せなひと時だった。現実の世界では、望みもしない引っ越しや就職でフラストレーションが溜まっていた。

そんな私にとって、ブルックナーの第八を聴きながら昼酒を飲むのが唯一の慰めといえた。

もう一つの趣味であった読書がおざなりになっていただけに、私はますますクラシック特にブルックナーに傾倒していった。

その年の暮れぐらいだろうか。JR静岡駅の南側に私は格好の酒場を見つけた。

17時に仕事が終わるのを待ち構えたかのように、私はその酒場へ向かった。

安くて旨い飲み屋を見つけたことで、すっかり有頂天だった。おかげで最終バスに乗り損ねた。当時自宅は山際に借家を借りていた。

タクシー代も残ってないし、歩いて帰ることにした。何時間かかっただろう。

途中、私は朝比奈先生のブル八を脳内再生した。そうすると、大変なはずの帰り道も苦にならなかった。

第三楽章のアダージョを流しながら暗い夜道を歩いていると、音楽が今まさに暗闇から浮かび上がってくるような感覚を得た。

ブルックナーは毎晩のようにビアホールで痛飲しながら、虫の音を聴くのを楽しみにしていたという。

アダージョには、そんな時のブルックナーの気分が反映されているのかと想像したりした。

三周目か四周目の脳内再生で、夜が明け家に帰り着いた。

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カラヤン嫌いのあなたへ

新時代を背負って立つ存在だったからだろうか。ヘルベルト・フォン・カラヤンは、往年の名指揮者と称された先輩たちと折り合いが悪かった。

フルトヴェングラーカラヤン嫌いは病的とさえいえた。

大戦中、ナチスによって「奇跡のカラヤン」と大々的に持ち上げられ、フルトヴェングラー自身の地位を脅(おびや)かされた。

戦後非ナチ化裁判で無罪を勝ち取り、古巣のベルリン・フィルをまた振るようになった。

その際、たとえ客演であってもカラヤンベルリン・フィル接触しないよう、あの手この手で妨害した。

この若き指揮者は、首をすくめながらつぶやくのが常だったという。

私には時間があるからね」

事実その通りになった。

フルトヴェングラー没後、まんまとベルリン・フィルを掌握したカラヤンはその瞑想するが如き指揮スタイルで聴衆を瞠目させ熱狂させた。

暗譜ができることは、指揮者の必須条件みたいなものでそれ自体は別段珍しいことでもない。

たとえば、アルトゥーロ・トスカニーニなどはデビューした際極度の近眼だったため、暗譜でオペラを振りセンセーショナルな注目を浴びた。しかし暗譜自体は、後年になるほど嗜みのようなものとなった。

それでも暗譜できることを誇示するため、目を閉じてタクトを振る姿勢は見ようによっては虚仮威しとも受け取れる。ある指揮者がチクリと一言。

「だけど私は、楽譜が読めるからね」

ハンス・クナッパーツブッシュである。

アンチも多かったカラヤン。当然、その演奏に関しては賛否両論があった。

以下のエピソードは、その点を踏まえると興味深い。ある指揮者が演奏会を聴きに出向き終演直後、

「悪くないぞ、カラヤン!みんなが言うほど悪くないぞ!」

拍手をしながら大声でまくし立てた。オットー・クレンペラーであった。以来、カラヤンクレンペラーを終生憎んだという。

 

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そして伝説へ

1954年11月30日に、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが静養先のスイスのバーデンバーデンで息を引き取った。

死因は肺炎で、まだ68歳という働き盛りでの逝去だった。


欧州全体で哀悼の意を伝えられ、誰が次のベルリン・フィルの首席指揮者になるかが注目された。

選ばれたのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンだった。それも本人希望の、終世指揮者というおまけつきで。

なぜチェリビダッケではなく、カラヤンが後継者に選ばれたのか?一説がある。

フルトヴェングラーの葬儀の際、チェリビダッケが不用意な発言をしたのが決定打となったとされる。

「彼はいい時期に死んだ。何故なら、フルトヴェングラーの耳はもう聴こえなくなっていたのだから」

フルトヴェングラーは晩年難聴に悩まされ、自らのキャリアを断たれる事態に追い込まれた。

そのためフルトヴェングラーの死は自殺と主張した一部の関係者がいたくらいだ。

いずれにしろ、フルトヴェングラーの生前のアクシデントに触れることは公然のタブーであっただろう。ましてや葬儀の席で触れるのは御法度ではなかったか。

ただし疑問は残る。いくらなんでも、チェリビダッケはその禁句を口にしたのか、と。

あるいはチェリビダッケを追い落とすために、カラヤン派の楽員が流したデマの可能性もある。

ただし、真実か否かにしてもチェリビダッケにはどうでも良かっただろう。

彼にとってキャリアを築く場所は、ベルリン・フィルでなくても構わなかったのだろう。

事実彼は、さまざまなオーケストラを渡り歩き最終的にはミュンヘン・フィルでその生涯を終えた。

生前、CDなどの録音販売を頑なに拒否していたこの幻の指揮者は、演奏会のみで聴けるという戦略でカラヤンとは別の形で伝説となった。

没後、海賊版CDによって彼の芸術を歪曲されると恐れた遺族によってライヴ録音が発売された。

彼にとっては本意であっただろうか。

 

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